中野剛志さんのシュンペーターの動画を見た。100年以上前に少子化を予言していたという。資本主義は成功するから滅びる、というのが面白いし納得できた。入門 シュンペーターも買おうと思う。
合理的は理に合うと書くが、合うとは言っても、その理が正しいかどうかは全く保障されていない。理の正しさは作った人の視野や頭のよさ、範囲で変わる。
もし、今後シュンペーターの理論が正しく資本主義が滅びるとしたら、短期的な社会の繁栄、成長には資本主義は正しく、長期的には間違っていたということになるだろう。
社会のため、未来のためは、人々の行動を変えるほど合理的に説明できない。
人はシンプルで分かりやすい理論を好んでしまうし、そのため視野を狭くしがちだが、現実は広大で長期で複雑だ。
理の範囲
理(論理、理論的な意味とする)とは現実の一部を抽象化して、文字などで表したものだと思う。それでうまくいく場合もあるが、大きな範囲になるほど問題が出ることが多いだろう。
1000年後の子孫のための理論を作るのは難しく、今の自分が良くなる理論を考えるのは容易い。
社会や未来まで視野を広げて理を作る、詳細な理論を作るのはほぼ不可能に近し、それを理解し実行できる人もいないだろう。
理の代わりに
では、理の代わりに何を使えばいいのかというと、思いついたは2つ。
過去のできごとを知って参考にすること(歴史と言ってしまうと史料の縛りが出てくるので避ける)、
本能的な感情、感覚を参考にして実行することだ。
本能も過去から受け継がれてきたものなのである意味同じかもしれない。
子供はかわいいし、アニメは楽しいし、焚火は楽しいし、役に立たないものでも何かを創るのは楽しい。
4000年前か、もしかしたら5000年前にはギルガメッシュ叙事詩が書かれていたし、それを楽しむ人々がいた。
歴史(史料に基づくという狭義の意味で)には残っていないけど、1万5千年前から日本に人が生きていて、船で遠くの黒曜石をゲットしたり、土偶というフィギュアを愛でて埋めたり割ったり、作りこみすぎな縄文土器を作っていたし、もしかして縄文とされている模様も文字かもしれない、と不確かだけど確実に存在した昔のことに思いを馳せるのも視野を広くする効果があるかもしれない。
数千年、数万年という単位であれば今のほとんどの問題は些細なことだ。
また、合理的を否定せず、その理の範囲を考えて、視野を広く持ち自分にとってよりよい合理性を追求するのはありだと思う。
誰かが押し付けてくる合理的には注意しなければならない。自分にとっては正しくない合理的、な可能性が高い。